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東京地方裁判所 昭和35年(行)36号 判決 1961年11月21日

原告 株式会社 檜文商店

被告 労働保険審査会

訴訟代理人 村重慶一 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一  当事者双方の申立

原告訴訟代理人は「被告が川地信子及び鈴木英男に対する保険給付処分に関し原告からなされた再審査請求につき昭和三四年一二月二八日付でした裁決を取消す。」との判決を求め、被告指定代理人は主文同旨の判決を求めた。

二  原告訴訟代理人は請求の原因として次のように陳述した。

(一)  請求の趣旨記載の裁決の成立

(1)  名古屋北労働基準監督署長(以下労働基準監督署長を「労監署長」という。)は原告の使用する労働者であつた亡鈴木信一の遺族たる川地信子及び鈴木英男からなされた労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)による保険給付(遺族補償費及び葬祭料)の請求に対し、昭和三一年三月九日右信一が業務上の災害によつて死亡したものと認定したうえ同法第一七条の規定に基き、保険給付の一部(補償費総額の四八パーセントに相当する額)の支給を制限して、その残余を支給する旨の決定(以下「原処分」という。)をした。

(2)  原告は右鈴木信一の死亡が業務外の事由によるものであることを理由に原処分に異議を唱えて同年五月七日所轄の労働者災害補償保険審査官(以下「保険審査官」という。)に、審査の請求をしたが、昭和三二年四月一八日保険審査官から右請求を理由がないとして棄却する旨の決定(以下「第一次決定」という。)をうけたので、これを不服として同年六月一八日労働保険審査会(本件被告)に再審査の請求をしたところ、被告は昭和三三年一〇月三一日第一次決定を取消し、事件を保険審査官に差戻す旨の裁決(以下「第一次裁決」という。)をした。

(3)  しかして差戻事件の審査に当つた保険審査官は昭和三三年一二月二七日被災者の使用者たる原告には原処分が保険給付の支給を制限した点の違法又は不当を攻撃してその取消を求めるなら格別、そうではなしに当該災害が業務上のものではないこと、すなわち災害補償義務の不成立を理由にしたのでは原処分の取消を求める法律上の利害関係があるといえないから、労災保険法第三五条第一項の審査を請求する適格がないとして、原告の審査請求を却下する決定(以下「第二次決定」という。)をし、これに対し原告からなした再審査の請求について、被告は昭和三四年一二月二八日付をもつて第二次決定と同一の理由で請求棄却の裁決(以下「本件裁決」という。)をし、昭和三五年三月一五日その裁決書の謄本が原告に送達された。

(二)  本件裁決の瑕疵

しかしながら本件裁決には以下に掲げる違法な瑕疵がある。

(1)  そもそも労災保険法による保険給付に関する決定は、その全額支給又は一部制限支給を容認したものは勿論、その支給を全額につき制限したものであつても、労働者の災害が業務上の事由によるものであることを前提として始めてなし得るものであるから、当然にその点の判定を包含するのである。もしそうでないとすれば災害補償義務がないのに保険給付がなされることを避け得ないため権利関係の錯綜を招くことにもなりかねない。従つて保険給付に関する決定においてなされた災害に関する判定に異議がある限り使用者といえども同法第三五条第一項による審査を請求して右決定の取消を求めるだけの法律上の利益がある。なるほど使用者はそのような場合労働基準法第八五条第一項による審査の請求もなし得るけれども、それだからとて他の救済手段から遮断されるいわれはない。本件裁決はその理由中において、労働基準法による災害補償義務の存否は労災保険法による保険給付に関する決定がなされたか否かによつて左右されるものではないから、使用者は労働者の災害が業務上の事由によるものであることを争い災害補償義務の不成立を理由にしたのでは保険給付に関する決定の取消を求めるだけの法律上の利益を有せず従つてこれが審査の請求をする適格がないと判示しているが、保険給付に関する決定の審査請求をする適格の有無は請求人が災害補償義務を負担するか否かの客観的事実によつて定まるものであつて、もとより請求人の申立てた異議の理由如何によつて定まるものではない。しかして名古屋北労監署長は昭和三一年三月一四日原告に対し原処分をしたことの通知と同時に保険給付の支給制限額に相当する金額につき災害補償義務の履行を督促したが、この事実は被災労働者の使用者にも審査請求をする法律上の利益があることを如実に示すものである。本件裁決は以上の点の法律解釈を誤つた結果異議の理由につき判断を脱漏した違法がある。

(2)  次に又前記のように労監署長が原告に対し災害補償義務の履行を督促した事実から推せば原処分は保険給付に関する決定たる反面、労働基準法による災害補償の実施に関する行政庁の処分たる性質を有するものと解されるのである。従つて原告が同年五月七日原処分に対してした審査請求も亦、労災保険法第三五条第一項に基く不服申立であると同時に、労働基準法第八五条第一項、第八六条第一項に基く業務上の死亡の認定に関する審査請求をも兼ねていたのである。しかるに第二次決定は原告の審査請求を以て単に前者であると曲解もしくは誤解し、後者の請求事項について判断を遺脱したが、本件裁決がこの点を看過して第二次決定を維持したのは違法である。

(3)  なお本件裁決は第一次裁決に関与した被告の会長上山顕が関与してなされたものであるが、これは再審査の請求を認めた法意を全く無視したものであつて、違法である。

(三)  よつて本件裁決の取消を求めるものである。

三  被告指定代理人は答弁として次のように陳述した。

(一)  請求原因(一)の事実は認める。

(二)  本件裁決になんらの瑕疵はない。

(1)  請求原因(二)の(1)の主張について

使用者は労働基準法に基き被災労働者又はその遺族に対し災害補償義務を負担するのであるが、労災保険法による保険給付がなされたときは、労働基準法第八四条第一項によつてその価額の限度において補償の責を免れる関係にあるから労災保険法による保険給付に関する決定において同法第一七条ないし第一九条に基き保険給付の支給制限がなされた場合には、補償義務の免責範囲の縮限を免れるため保険給付制限事由の不存在を理由に、同法第三五条第一項に基き審査の請求をする法律上の利益を失わないであろう。しかしながら使用者の災害補償義務は労災保険法による保険給付がなされたと否とにかかわりなく、労働者が業務上災害をうけたという労働基準法所定の要件に該当する事実が存する限り当然に生じるものであり、一方労災保険法による保険給付の支給は、前述のようにその価額の限度において使用者に補償義務の免責を得させることになる以上使用者に利益こそもたらせ、なんら不利益をもたらすものではないから、使用者は保険給付に関する決定に対しては労働者の災害が業務上の事由によるものでないことを理由にその取消を求めるだけの法律の利益を有しないものという外ないのであつて本件裁決には原告主張のような違法はない。なお名古屋北労監署長が原告に対し原処分をしたことの通知と同時に災害補償義務の履行を督促したことは争わないが、右督促は単なる勧告に止まり、もとより使用者が労働者又はその遺族との間において災害補償義務の存在を争う場合の障碍となるものではないから、その一事によつては保険給付に関する決定の取消を求める法律上の利益を生ずべきいわれはない。

(2)  請求原因(二)の(2)の主張について

労災保険法による保険給付に関する決定に対する不服申立は同法第三五条第一項により保険審査官に対する審査請求を以てし、その決定に不服がある者は労働保険審査会に再審査の請求をし、その裁決に不服がある者は更に裁判所に抗告訴訟を提起することが許されるのであるが、災害補償の実施に関して異議のある者は労働基準法第八五条第一項により労監署長に審査又は仲裁を請求し、その結果に不服がある者は同法第八六条第一項により保険審査官に審査又は仲裁を請求することが許されるだけで、その結果に不服があつても裁判所に出訴することまで許されるものではない。その違いは前者が保険給付の内容、範囲を具体的に確定し、私人にその請求権を取得させる行政処分であるに反し、後者がなんら強制力を伴わず単なる勧告的措置に止まることから生じるのである。しかるに原告が昭和三一年五月七日原処分に対してした審査請求は原告自認のように直接保険審査官に対してなされたのであるから、右請求中に労働基準法第八五条第一項又は第八六条第一項による審査の請求が包含されているものと解する余地は全くなく、本件裁決がこの点に関し原告主張のような批難を蒙るいわれはない。

(3)  請求原因(二)の(3)の主張について

労災保険法による再審査の手続については民事訴訟法第三五条第六号に相当する審査員除斥の規定が存しないから第一次裁決に関与した被告の会長上山顕が本件裁決に関与したからとてこれを以て直ちに違法ということはできない。

四  証拠<省略>

理由

一  本件裁決の成立

名古屋北労監署長が亡鈴木信一の遺族に対し労災保険法による保険給付に関する原処分をした点、これに対する原告の不服申立に基き、保険審査官が審査請求棄却の第一次決定をし、被告が第一次決定取消、差戻の第一次裁決をし、次で保険審査官が差戻事件につき審査請求却下の第二次決定をし、被告が再審査請求棄却の本件裁決をし、その裁決書の謄本が昭和三五年三月一五日原告に送達された点に関する請求原因(一)の事実は当事者間に争いがない。

二  本件裁決の適否の判断

(一)  原告は労災保険法による保険給付に関する決定は、その全額支給又は一部制限支給を容認したものは言うに及ばず、その全額につき支給を制限したものであつても労働者の災害が業務上の事由によるものであるという判定を包含するから、その判定に異議がある使用者は同法第三五条第一項による審査請求をするだけの法律上の利益があるのに、本件裁決はこれを消極に解した結果原告の異議の理由について判断を遺脱した違法があると主張する。

いかにも労災保険法による保険給付に関する決定が所論のように労働者の災害が業務上の事由によるものであるか否かの認定を前提としてなされるものであることは制度の目的(同法第一条)からいつて疑がない。しかしながら使用者の労働者又はその遺族に対する災害補償義務が労働基準法第七五条ないし第八一条に定める災害補償の事由の存する限り当然に生じるものであることは右規定上明らかであつて、これが労災保険法による保険給付に関する決定の有無、いわんや右決定に伴う災害補償事由に関する認定如何によつて左右さるべき成法上の根拠はない。すなわち労災保険法による保険給付に関する決定は労働者(又はその遺族)と、いわば保険者の地位にある政府との間に保険給付の権利関係を設定し又はこれを拒否する処分であつて、労働者(又はその遺族)と使用者との間における災害補償に関する権利義務の存否を公権的に確認する処分ではないのである。ただ使用者は災害補償義務を負担していても、その補償を受くべき者が労災保険法により保険給付を受くべき場合においては、労働基準法第八四条第一項により、その価額の限度において補償の責を免れるが、それは労働者災害補償の保険関係において使用者が保険加入者であつたことに基く制度上当然の効果たるにすぎずこれあるが故に使用者の災害補償義務の存在が実体的に争うべからざるものとなるわけではない。従つて使用者は労災保険法による保険給付に関する決定が同法第一七ないし一九条による支給制限をしたものである場合には労働者に対する災害補償義務の免責を得る範囲が縮少する以上これを免れるためその支給制限が不当であることを理由に同法第三五条第一項による審査の請求をするだけの法律上の利害関係を有するけれども、たとえ災害補償の事由がないのに保険給付をなすべき旨の決定がなされた場合においても、これによつて、なんら失うところがない(保険給付を受けた者が不当に利得し、保険者たる政府との間において解決さるべきこととなつても、使用者の利益が侵害されたことにはならない。)以上、災害補償事由の存在を争つて同法第三五条第一項による審査の請求をするだけの実益を有するものではない。

原告は名古屋北労監署長が昭和三一年三月一四日原告に対し原処分をしたことの通知と同時に保険給付の支給制限額に相当する金額につき災害補償義務の履行を督促した事実を以て災害補償事由の不存在を理由とする同法第三五条第一項の審査請求に実益があることの根拠の一つとし、右挙示の事実は被告の認めて争わないところであるが、労監署長が災害補償義務の履行を督促したからとて、それは法的強制力を伴わない単なる勧告的性質を有するにすぎないものであつて、もとより、これにより客観的に存在し、又は存在しない労働者(又はその遺族)と使用者との間における災害補償に関する権利義務に格別の影響を与えるものではないと解する外はないから、右督促の一事だけでは保険給付に関する決定に対し原告主張のような審査請求をする法律上の利益のあることを肯認するに足りない。使用者は労働者(又はその遺族)との間において右のような労監署長の督促に従い災害補償をなすことに異議があれば労働基準法第八五条第一項、第八六条第一項により行政官庁に審査又は事件の仲裁の請求をすることができるのであるから、よろしく、この手続によつて紛争の解決を図れば足りるのである。もつとも行政官庁が右法規によつて行う審査又は仲裁の結果も亦当該行政官庁の判断で災害補償の関係当事者に紛争の解決を勧告する性質を有するにすぎないから、その関係当事者が任意にこれに従わない限り災害補償に関する紛争の解決は結局民事訴訟による司法救済にまつ外はないが、この場合においても、さきに説示したように保険給付に関する決定のあることで実体的に災害補償義務の存在が肯認さるべきものではないことを想起すべきである。

これを要するに使用者が災害補償事由の存在しないことだけを理由としたのでは保険給付に関する決定に対する労災保険法第三五条第一項の審査請求をする法律上の利益を欠くが、それは使用者が当該保険給付に関する決定によつて直接に権利又は利益の侵害を受けたものというに当らないからに外ならないところ、労災保険法による保険給付に関する決定に対し同法第三五条第一項の審査請求をなし得る適格のある者として右規定にうたわれる「保険給付に関する決定に異議のある者」とは、保険給付に関する決定に対する行政上の争訟を提起する権利を与えられる者である以上、保険給付に関する決定によつて直接に権利又は利益を侵害された者を意味するものと解するのが審査請求という行政上の争訟の法律上の性質に合致する。しかるに使用者たる原告が災害補償事由の不存在だけを理由として原処分に対し労災保険法第三五条第一項の審査請求をなしたことはさきに認定したとおりであるから、原告は右規定による審査請求をする適格がないものといわなければならない。従つて本件裁決が右と同一の論拠から災害補償事由の存否に触れることなく原告の再審査請求を棄却した点には、なんらの瑕疵はない。

(二)  次に原告は原告の原処分に対する審査請求は労災保険法第三五条第一項に基く不服申立であると同時に労働基準法第八五条第一項、第八六条第一項に基く審査請求を兼ねていたのであるが、本件裁決には後者について判断を遺脱した第二次決定を維持した違法があると主張する。

しかしながら労働基準法第八五条第一項、第八六条第一項によれば労働者の災害補償の実施に関し異議がある者は労監署長に(同法第一〇〇条第四項)審査又は事件の仲裁を請求し、その結果に不服がある者は保険審査官に(昭和三一年法律第一二六号による改正前においては労働者災害補償審査会同法第八六条第一項)に審査又は仲裁を請求することができるのであるが、原告が原処分に対し昭和三一年五月七日付でした審査請求は初審でありながら、さきに認定したように保険審査官に対して(労監署長に対してではなく)なされたものである。のみならず、労働基準法第八五条第一項が審査又は仲裁の対象として規定した災害「補償の実施」というのは災害補償に関する権利義務の当事者たる労働者(又はその遺族)と使用者との間における補償の実施を意味し労災保険法による保険給付に関する決定の如きを含まないと解するのが相当であるところ、原告が審査を請求した原処分はいうまでもなく労災保険法による保険給付に関する決定である。従つて原告の右審査請求が労働基準法第八五条第一項又は第八六条第一項による審査の請求を兼ねたものであると解すべき余地は全くなく、これと相容れない原告の前掲論拠は、すべて理由がない。従つて本件裁決に所論のような瑕疵があるとはいい難い。

(三)  最後に原告は被告の構成員として第一次裁決に関与した上山顕が本件裁決にも関与したことを以て再審査制度を認めた趣旨に反するものとして攻撃するが、行政上の争訟に関し上級裁決庁の差戻の裁決に関与した者がその後の手続において再度同審級の裁決に関与したからといつて、審級関係が無意義に帰するものではないから、原告の批難は失当である。

(四)  してみると他に違法事由の存在につき主張、立証がない以上原告の労災保険法第三五条第一項に基く審査の請求を却下した第二次決定を維持し、これに対する原告の再審査請求を棄却した本件裁決は相当であるといわなければならない。

三  よつて、これが取消を求める原告の請求を失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 駒田駿太郎 西山俊彦 北川弘治)

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